「私自身も昔のようにのんびりとプレーを楽しめるゴルフ場ができたらいいと思うが、個人的な事よりも、ゴルファーのレベルアップにつながるようなゴルフ場をこの中部地方に造りたい。それが余生を送る年になった私の夢です。その時が来たらぜひ力を貸してほしい」。名古屋ゴルフ倶楽部理事長で中部経済界の重鎮、中部日本放送(CBC)の会長であった佐々部晩穂氏は和合の石川一夫プロに語りかけた、ゴルフ場造りに賭けた佐々部氏の情熱と愛情が、南山カントリーを誕生させたのだ。
佐々部氏は、昭和11年、日本銀行を経て経済界に身を投じ、戦後は名古屋の有力企業の経営にかかわっていたが、26年、CBC社長としてわが国初の民間ラジオ放送の第一声を送り出したことで知られる。また、大正15(1926)年の日銀ロンドン支店勤務時代から本格的にゴルフの腕を磨いた長いゴルフ歴を持ち、日本のゴルフの草分け的な存在として日本ゴルフ協会副会長なども歴任していた。「そろそろ財界活動から退き、余生は日本のゴルフ界の発展に情熱を注ぎたい」。そうした熱い思いが、名古屋の財界人の心を揺り動かしたのである。
用地の候補地として、佐々部氏が愛知県豊田市中金地区を提案。用地買収のめどがついた昭和46年11月、佐々部氏が発起人となり、CBCを主体にした加茂開発株式会杜が設立された。
佐々部晩穂氏
昭和40年代半ばといえぱ、東京オリンピックの開催、新幹線の開通、沖縄の本土復帰などが実現し、国民総生産(GNP)もアメリカに次いで世界第2位となり、「昭和元禄」といわれた時代。しかし、そうした高度成長の裏には、ドルショックや「公害」などの暗いかげりも表面化し始めていた。
環境問題が大きくクローズアップされ、公害対策基本法、大気汚染防止法などが制定された。とりわけ、ゴルフ場建設の前に立ちはだかったのは、森林環境を保全するための「保安林確保」の問題だった。中金地区のコース予定地のおよそ半分が保安林だったため、環境を守る一方で、保安林の指定解除という難題をどう克服するかが最大の課題であった。これに加えて、折悪しく昭和47年7月半ば、コース建設予定地に近い小原村と藤岡村が未曾有の集中豪雨に見舞われ、死者・不明者54人を出す大惨事が発生する。南山コース予定地の一部もその影響は免れることはできなかった。
追い討ちをかけたのが石油ショックだった。物価が高騰し、工事費はふくらむばかり。思うように会員が集まるだろうかなど、採算面での心配もないとは言えなかった。だが、佐々部氏に対する信頼や、地元民放界の嚆矢としてのCBCへの信用も追い風となって、第1次会員募集にもめどをつけることができた。中金地区は名古屋市内から遠い距離にあったが、アクセスとしてグリーンロードが建設されるなど、前途には明るい兆しも見え始めていた。
佐々部氏や、コース建設総責任音としてCBCから出向していた常任理事の池尾信太郎氏は、ゴルフ場設計には斯界の第一人者であった井上誠一氏に白羽の矢を立てた。加茂開発株式会社は法規制(保安林解除一時凍結など)や自然災害などの障害をクリアし、ようやく49年春から大成建設の手で工事に取り掛かることができた。さまざまな困難を乗り越え、南山カントリーが開場にこぎ着けたのは50年11月のことであった。
池尾信太郎氏
「南山カントリー」の名称の由来は何か。ゴルフ場周辺に南山という地名があれば納得できるが、地名は残っていないばかりか、豊田市の古文書や地誌にも見当たらない。
実は、南山カントリーの正面玄関を入ったところに、額におさめた小さな色紙が飾られている。会員のプレーヤーも気づく人は少ないが、色紙には「寿比南山福如東海」と書かれている。また、南山カントリーの創始者である佐々部晩穂氏が旧東海銀行頭取時代の祝い事の際、「寿比南山・福如東海」と書をしたためられたことがあるという。この色紙はその時のもので旧東海銀行の本部と南山カントリーの2枚しか残されていないことが分かった。
南山カントリー創設にあたって、佐々部氏がこの8文字から「南山」という名称を付けられたに違いない。8文字の意味は次のようである。最初の「寿比南山」の出典は世界最古の詩集とされる中国の古典「詩経」で、最初は皇帝の長寿を祝う意味で使われていたが、時代を経るに従って陶淵明・王維ら有名な詩人の間では、祝い事、縁起のよい事の常用句として使われるようになったらしい。「南山」とは、本来は現在の中国・西安の南から数千メートルの山々を連ねる泰嶺山脈の主峰「終南山」を指す。しかし、後世の詩人は、南山という地名の縁起をかついで自分の住まいの南にある婆形のよい山をすべて南山と称している。また、南山は単に祝い、ことほぐという意味のほか、「松や柏など常緑樹が根付いて人を寄せ付けない厳しさをもって永久に崩れることがない」という意味も持っている。さらに、中国の詩人は、ことあるごとに「南山の寿」という字句を使っており、また、南山が「難攻不落」という意味を秘めているという。「縁起がよくて難攻不落」。まさに「南山は難山」と言われるにふさわしい名称ではなかろうか。なお、豊臣秀吉もこの「寿比南山、福如東海」という言葉を愛し、それを刻んだ印(印鑑)が徳川美術館に収められている。参考までに、「福如東海」は、中国の東に位置し、古代から蓬莱山と言われてきた日本を指し、そこには限りない福があると想像していた古代中国人の夢を表す4文字として、「寿比南山」と対句として使われている。
「獅子鈕古印」(ししつまみこいん)伝豊臣秀吉所用 徳川美術館所蔵
色紙には「寿比南山 福如東海」
南山カントリーは、ゴルフの初心者にとっては峻厳そのもののコースであり、ゴルフ上手の人にとっても難易度は高いコースである。しかし、その難しさを、なだめ、いたわるように、常緑樹の松に加えて、春には中世から日本有数の桜の名所と言われている矢作川沿いの桜やツツジが、また秋には足助・香嵐渓に代表されるカエデをはじめドウダンツツジやハゼなどの色とりどりの紅葉がゴルファ一を楽しませてくれる。南山カントリーは中国の古典を引くまでもなく、ゴルファ一にゴルフの厳しさを教えながら自然の美しさを楽しませてくれる日本一のコースであると言えないだろうか。
(文責:馬島丕吏)
南山カントリークラブへの
入口を示す石碑
井上誠一氏は日本のゴルフ設計史上、名匠の名にふさわしいゴルフ場設計の第一人者である。霞ヶ関、大洗、日光、西宮、茨木など彼の手による38のコースはすべて名門と呼ばれる。井上氏は南山を手がけるまでには、東海地方でも愛知CC、桑名CC、春日井CC、伊勢CCなどの設計を担当しており、佐々部晩穂氏が井上氏に設計を委ねることにしたのは当然の成り行きといえよう。
南山は尾根と谷とが複雑に交錯した極めて変化に富んだ地形なのでこの自然の地形を極度に利用して戦略性を盛り込みたい。散在する巨岩、樹木、それに数個のウォーターホールを組み合わせて各々のホールが趣の異なったキャラクターを持ったものになるようにしたい。フェアウェイ中央に長打を放てば良いスコアが出るというコースではなくて、エブリショット毎にいつも頭の中で各自の腕前に相応したルートや球筋を練って各ホールに挑戦していかねばならない。何度プレーしても飽きることなく、ラウンドする毎に尽きぬ興趣をそそられるようなコース造りを目指したい。
井上氏のゴルフ場の設計理念は「自然を破壊しない」という哲学で貫かれている。35万坪(約116ha)にも及ぶ建設予定地のおよそ半分を保安林として残すという制約のもとでの設計は、井上氏をおいて他になかったと言える。井上氏は南山カントリーのコース設計について会報創刊号の中でゴルフ場への思いを次のようにも寄せている。
井上誠一氏(中央)
「私の造ったのは名門コースはかりだと」言われるが、名門かどうかはともかぐあらゆる条件を考え、全力を挙げて取り組んだことは確かだ。
ゴルフ場建設については世間の風当たりが強い。「自然破壊」というのが最大の理由だ。そんな心配のあるところにコースを造るのがそもそも間違っていると思う。仮に造っても、まともなコースができるわけがない。私はコース造りを依頼されたとき、まず等高線入りの図面と航空写真を念入りに見る。これを見ると、まともなコースが造れるかどうかすぐ分かる。だから不適当なところは設計を断るというより、建設そのものを断念するよう説得してきた。ゴルフは、もともと自然原野を使って発展してきた。自然を壊すようなコース造りはゴルフでもなんでもない。もっとも、コース造りにも定石がある。定石無視もダメだ。周囲の自然条件に合った治水、緑化、地形保存に心を配り、何を生かし、どれを残すか、すべてを天秤にかけながら、独自の見解でレイアウトすることにしている。南山カントリークラブは、地形的に優れている上、場所も広いので、ゆとりのある設計ができた。樹木が多く、それに滝まであるゴルフ場は珍しいと思う。私はかつて欧米のコースを回り、それらも参考にして日本で傑作を造ってみたいと念願してきたが、南山はある程度その念願を果たしてくれそうだ」
南山カントリーは文字通り彼の「最後の傑作」となったのである。
設計図を見ながら
現場を指揮する井上氏
コース図面設計
季節に応じて豊富なメニューをご用意しております。
〒470-0312 愛知県豊田市中金町獅子ヶ谷955番地
Tel. 0565-42-1111 Fax. 0565-42-1114